新たなる試み2

これはある小説のプロローグから3万語分の出だしです。
もしこれを読んで興味が出てきたら本屋さんで買って続きを読んでください。

なぜこんな物を出したのか? 最近歳を取ったせいなのか、本を読んでいるだけでは何も頭に入ってきません、勉強の本を読んでも、面白い小説を読んでもさらっと通り過ぎていくだけで何も頭に残りません、
ではどうしよう、と思って、いろいろ考えて始めたのがこの小説を読んで面白かった物をキーボードからパソコンに打ち込んでみる。と言うことでした。
こうすることによってその本をただ読んでいるだけでは気がつかなかったことがほんの少しわかってきたように思えます。
小説を書くと言うことはただ心の中に浮かんだことを、心の赴くままに書き連ねているのでは無く、緻密にいろんなことを考えそして一つの軸に沿って次から次へと積み重ねていくことが小説を書くということなんだなと言うことが少し見えて来ました。
そしてまたこの打ち込みを可能にしたのがキーボードの選択です。最初、メカニカルキーが好きで、安い3500円ほどのSCYTHEのキーボードを使っていました。確かにメカニカルらしい雰囲気はしていたのですが何かおかしい、キーを打つときの感触が何か違うように感じました。そのうちにNのキーがおかしくなったので、今度はサンワサプライのメンブレのノートパソコンのようなキーボードを使いました。確かに軽い感じで打てるのですが、どうもなよなよとして欲求不満が残ります、しかもなぜか指にいやな疲労感が残ります。
そこで、パソコン屋に行ってそこにあるキーボードを片っ端から試してみました。
結局やっぱりメカニカルが気持ち良いと言うことで、チェリーの黒軸、赤軸、茶軸、青軸と搭載したキーボードを試してみて最後はオウルテックの青軸を搭載した12800円のキーボードを選びました。その結果、打ち込み量は前のと比べて3倍くらいになりましたし、指にも負担があまりなくなりました。

この小説はまだ一回しか読んでいませんが面白かったです。

プロローグ

あれは確か終戦直後だった。正確な日付は憶えていない。しかしあの0だけは忘れない。悪魔のような0だった。
 俺は空母「タイコンデロガ」の5インチ高角砲の砲手だった。俺の役目はカミカゼから空母を守ることだった。狂気のように突っ込んでくるカミカゼを打ち落とすのだ。
我々の5インチ砲弾は近接信管と言って、砲弾を中心に半径五十フィート(約十五メートル)に電波が放出されていて、その電波が飛行機を察知した瞬間に爆発する仕組みになっていた。最高の兵器だ。それを何百発と撃つんだ。ほとんどのカミカゼは空母に近づく前に吹き飛んだ。
 初めてカミカゼを見たときにやってきた感情は恐怖だったが、俺が「タイコンデロガ」に乗り込んだのは、千九百四十五年のはじめのこと。噂に聞いていたカミカゼを目の当たりにし、こいつらに地獄の底まで道連れにされると思った。スーサイドボンバー狂気の沙汰だ、そんな物は例外中の例外と思いたい。しかし日本人は次から次へとカミカゼ攻撃で突っ込んでくる。俺たちの戦っている相手は人間ではないと思った。死ぬことを恐れないどころか、死に向かって突っ込んでくるのだ 。こいつらには家族がいないのか、友人や恋人はいないのか、死んで悲しむ人間がいないのか。俺は違う、アリゾナの田舎には優しい両親がいたし、許嫁もいた。
 しかし我が軍の砲は歯すばらしかった。近接信管の威力は驚異的だった。それを全艦艇が一斉に打ちまくるんだ。弾幕で空の色が変わるほどだった。それを突破できるカミカゼはほとんどいなかった。弾幕を抜けてやってくるカミカゼには四十ミリ機銃と二十ミリ機銃のシャワーのような洗礼が待っている。ほとんどのカミカゼは爆発するか燃えながら海に落ちた。
 やがて恐怖も薄らいだ。次にやってきた感情は怒りだった。神をも恐れぬ行為に対する怒りだった。いや、もしかしたら恐怖を与えられた復讐心から出た物かもしれない。
 俺たち銃砲手は砲と機銃に怒りのエネルギーを乗せて撃ちまくった。
最初の恐怖が過ぎると、ゲームになった。我々はクレー射撃の標的を撃つようにカミカゼを打ち落とした。
 奴らはたいてい浅い角度で突っ込んでくる。その頃の日本軍パイロットは新人ばかりで、深い角度で突っ込んで来られるやつはほとんどいなかった。我々の砲はたいていの角度に合わせることができるが、垂直に近い角度から突っ込まれると砲の照準がついて行かない。しかし飛行機の方もそんな角度で突っ込めば、艦に体当たりするのが非常に困難になる。飛行機に詳しいやつが言っていたが、スピードが出すぎると、舵がきかなくなるらしい。急降下で突っ込んで、目測を誤って海にダイブしたカミカゼも多く見た。
しかし、カミカゼを撃つのも次第に辛くなってきた。標的はクレーではない、人間なんだ。
もう来ないでくれ、何度そう思ったかわからない。
しかしやってくれば撃つ。そうしないと俺たちが死ぬからだ。カミカゼの体当たりを食らって沈められた艦艇は少なくはない。艦は何千人も乗っている。それが沈むと言うことは何百人かは死ぬと言うことなんだ。たった一人の日本人のためにアメリカ人が何百人も死ぬ、それは許せることではない。沈まなくてもカミカゼあっタックを食らえば、何人ものアメリカ人が死ぬ。
 五月の沖縄戦の後、我々の対カミカゼ防御はほぼ完璧な形になった。ほとんどのカミカゼは、本隊の100マイル前方に配置したピケット艦によって200マイル先からレーダーで捕捉され、艦隊の遙か手前の洋上で待ち構えた迎撃機に撃ち落とされた。
 その頃はもうカミカゼに護衛の戦闘機もつかず、言うなれば番犬がいない羊の群れの様な物だった、重い爆弾を抱えて動きも悪いカミカゼが我々の最新式戦闘機にかなうはずもない。 
 そんなわけで、ほとんどのカミカゼは機動部隊上空にもたどりつくことさえできなくなった。
 夏が来る頃には、我々高角砲の砲手の仕事も開店休業と言った有様だった。八月に入ると、戦争はまもなく終わるだろうと多くの兵士たちが噂していた。
あの悪魔のような0を見たのはそんな時だった。

第一三章 亡霊
 スターウォーズのテーマで目が覚めた。携帯電話の呼び出し音だ。時計を見ると、昼を過ぎていた。
 電話は姉からだった。
「今何をしてるの」
「散歩だよ」
「寝てたんでしょ」
「昼から就職活動をする予定なんだ」
 姉はちょっと黙ったが、すぐに「嘘付け」と言った。
「いつまで仕事もしないでぶらぶらしているのよ。健太郎みたいな男をニートというのよ」
ニートて何の約だか知ってる?」
姉はその質問を無視した。
「もし、今何もしてないんだったら、いいアルバイトを紹介してあげる」
またその話かとも思った。
 確かに26にもなって、仕事もしないでぶらぶらしているのは自分でも情けないとは思う。司法試験浪人と言えば聞こえはいいが、今年は試験も受けていなかった。大学四年生の時から四年連続で受けて不合格だった。最初の年が一番惜しかった。最難関と言われている論文式試験をパスしながら、口述試験で大ミスしたのだ。あのときはゼミの教授を大いに失望させた。
 翌年はまず大丈夫だろうと皆が思っていた。論文式をパスした者は翌年の筆記試験は免除されることになっていたからだ。ところが翌年も口述試験で躓いた。筆記試験を免除されたことによる油断だった。それで味噌がついたのか、翌年は論文式で落ち、さらに翌年は短答式試験で落ちてしまった。この年は、学生時代からつきあっていた恋人に振られて、精神的にも最悪な状態で受けた試験だった。
 それ以降、自信もやる気も失せてしまい、毎日ぶらぶらと時間をつぶすようになってしまった。ゼミの中では一番に司法試験に受かるだろうと言われていたのに、動機の中でも落ちこぼれの部類に入ってしまった。たまに塾講師のアルバイトや、気が向けば肉体労働の仕事などもやったが、どれもこれも時間つぶしのためにやっているようなものだった。
 真剣に勉強すれば合格する自信は今でもあったが、肝心のやる気が戻って来なかったのだ。何かのきっかけさえ有れば、エンジンさえかかれば、と言う気持ちはあったのだが、そんなこともなく、一年以上の月日が流れていった。その間、法律の本はずっとほこりをかぶっていた。
「アルバイトって何」
「私のアシスタント」
「遠慮させてもらうよ」
 姉の慶子は僕より四歳年上で、フリーのライターをやっている。と言ってもまだ駆け出しだ。情報誌を扱う出版社を四年ほどつとめてから、フリーになったのだ。最も仕事の大半が本の会社の雑誌のインタビュー記事だ。それでの一人で都内のマンションを借りているのだから、収入的には何とかやっていけているようだ。本人はいずれ一流のノンフィクションライターに成るといっているが、まあ夢みたいな話だろう。しかし姉の野心は相当強かった。
「あのね、正確にいうと、仕事のアシスタントじゃないの。実は祖父のことを調べたいのよ」
「おじいちゃんの何を調べるの」
「おじいちゃんじゃないの。そのーおばあちゃんの最初の夫」
「ああなるほどね」
 祖父は最初の夫を戦争で亡くしていた。特攻隊で死んだと聞いている。けっこうんせいかつは短かったらしいが、その短い間に生まれ多子供が僕の母だ。四十九日が住んでしばらくして、僕と姉は祖父に呼ばれ、そこで初めて実の祖父のことを聞かされたのだ。僕にとってはそのことよりも、本当の祖父と思っていた人が実は血の繋がら無い人だと知ったことの方が衝撃的だった。
 祖父は小さいときから僕と姉を実の孫としてかわいがってくれた。また、なさぬ仲の母とも非常に仲がよかった。祖母は祖父と結婚した後、二人の弟(僕のおじさんたち)を運だが、母とおじさんたちも仲がよかった。
 実の祖父の存在を知っても、その人に対して特別な感情は抱かなかった。僕の生まれる三十年も前に死んだ人だし、家には一枚の写真も残されていなかったから、シンパシーを感じろという右方が無理だ。たとえは悪いが突然亡霊が現れたようなものだ。 
 祖父も祖母から前夫のことはほとんど知らされていなかったらしい。ただし突わかっている事実は、カミカゼで戦死した海軍航空兵と言うことだけだ。彼に関しては、母も全く記憶が無かった。戦死したのは母が三歳の時だったが、そのずっと前から父親は戦地にいたという。
「どうしてその人のこと調べるの?」
 僕はあえて「その人」と言った。僕にとって祖父は今のおじいちゃん一人だったし、今更実の祖父に対して「おじいちゃん」と言う言葉を使うには抵抗があった。
「お母さんがこの前ふと、死んだお父さんて、どんな人だったのかなと言ったのよ。私はお父さんのこと何も知らない」
「うん」と言いながら、僕はベット~体を起こした。
「それを聞いたとき、何とかしてあげたいと思ったの。お母さんの気持ちはわかるわ。だって実の父親だもん。もちろんお母さんにとって、おじいちゃんは大切な人よ。おじいちゃんこそ本当のお父さんと思っているわ。でも、なんていうのかな、その感情とは別に、本当のお父さんがどんな人だったのか、知りたいのよ」
「今頃になって。」
「たぶん年を取ったせいもあるんじゃないかな」
「おじいちゃんはその人のこと何も知らないの」
「知らないみたい、おばあちゃんも前の夫のことはおじいちゃんにほとんど話さなかったらしいから」
「ふーん」
僕は祖父が好きだった。司法試験を目指したのも弁護士である祖父の影響だ祖父は国鉄職員だったが、三〇歳を過ぎてから司法試験に合格して弁護士に成った努力の人だ。最も早稲田大学法学部出身だからそれなりの学力はあったのだろう。祖父は貧しい人たちのために走り回る弁護士だった。使い古された言葉で言うなら清貧の弁護士だ。僕はその姿を見て弁護士を目指したのだった。
 祖父は、僕が何度も司法試験に落ちた末にぶらぶらしていても、まったく怒らなかった。それどころか相談にいった母に向かって「あの子はいずれしっかりやるさ。心配ない。」
と言った。この言葉は母と姉をがっかりさせたようだ。
「ところでその祖父の調査に何で僕が必要なの?」
「私は忙しいし」それにかかりっきりになれないし、それにこれは健太郎にも関係することだしね。でも、ただ使うつもりはないわ。報酬は払うわよ」
僕は苦笑したが、やってみてもいいかなと思った。どうせ暇な身だ。
「でも、どうやって調べるの」
「やる気に成ってくれた。」
「いや、調べる手がかりは何かあるかなと思って」
「何の手がかりもないわ、親戚がいるかどうかも一切わからない。でも、本名がわかっているから、当時どんな部隊にいたかくらいはわかるでしょう。」
「まさか同じ部隊にいた人を探して、どんな人だったか聞けって言うんじゃないだろうね?」
健太郎君、頭いいわね」
「やめてくれよ。第一六十年も昔の話だよ。仮にその人のことを知っている人がいたとしても、憶えているとは思えないな。それにもうほとんど死んでいるよ。」
「あなたの本当のおじいさんのことなのよ」
「そうだけど、別に特に知りたいと思わない。」
「私は知りたい!」姉は強い口調で言った。「私の本当のおじいさんがどんな人だったのか、とても興味があるわ。だってこれは自分のルーツなのよ。あなたのるーつでもあるは。」
 そう言われても別に心は動かなかったが、姉の言葉を否定する気は無かった。
「どうするの、やるの、やらないの?」
「わかった。やるよ。」
僕にも祖父のことを知りたい気持ちはないわけではなかったが、姉の申し出を受けた本音は退屈しのぎに過ぎなかった。それにお金が入るのもありがたかった。
翌日、姉と渋谷で会った。昼ご飯を一緒に食べながら話をしようと言うことに成ったのだ。もちろん姉の奢りだ。入ったところはチェーン店のイタリア料理店だった。
 姉は相変わらず化粧もほとんどせず、着古したジーパンをはいていた。
「実は私、今度大きな仕事をやらせてもらうかもしれないの。来年の終戦60周年の新聞社のプロジェクトのスタッフに入れたのよ。」
姉はちょっと誇らしげに言うと、大手新聞社の名前をあげた。
「へえ、すごいね。ちんけな雑誌から一気にレベルアップだね」
「ちんけなんて言わないでよ」姉は口をとがらせた。
僕は謝った。
「それでね、うまくゆけば本も出してくれるかもしれないの」
「本当なの?どんな本?」
「戦争体験者の証言を集めた本よ。まだ出るかどうかわからないけれどね。たぶん共同執筆になると思うけど、とにかくそんな話があるのよ。」
姉は目を輝かせていった。なるほどそういうことかと合点がいった。姉は祖父の調査で予行演習を兼ねようとしているのだ。祖父のことを知りたいと言う思いも、母のために調べてあげたいと言う気持ちも本心だろうが、それよりも今度の調査でライターとしての腕を上げたいと言う気持ちの方が強いのだろうと思った。これまで姉の口から死んだ祖父の話が出たことなど一度も無かったのだから。
 正直言うと、姉はジャーナリストには向いていないと思っていた。気は強いが、気を遣いすぎる性格だから、おそらく取材対象者にいやな質問や深く突っ込んだ質問はできないタイプだ。それに感情がすぐ表に出る性格もマイナスだろうと思っていた。こんなことは僕に言われるまでもなく、姉自身も自覚しているはずだ。それだけに今度の終戦プロジェクトで、脱皮を図って飛躍したいと思っているのだろう。
「ところで、祖父が特攻で死んだのは本当なの?」
「おじいちゃんはそう言っていたけど。」
姉はパスタを巻きながらそういった。それから他人事みたいに「身内にすごい人がいたのねえ」と言った。
 僕もまた「本当だね」と他人事みたいに相づちを打った。
「でも特攻隊ってテロリストらしいわよ」
「テロリスト?」
「これは仕事関係で会った新聞社の人の言葉だけど、神風特攻隊の人たちは今で言えば立派なテロリストだって、彼らのしたことはニューヨークの貿易センタービルに突っ込んだ人たちと同じと言うことよ」
「特攻隊がテロリストというのは違う様な気がするけど」
「その辺は私もよくわからないけど、そういう見方も有るらしいわよ。その人に言わせると、時代と背景が全然違うから違って見えるけど、構造は同じだって、いずれも熱狂的な愛国者で、殉教的という共通項が有るっていっていたわ。」
大胆な意見だったが、姉の言葉には、なるほどと思わせる物があった。
「これを話してくれた人はすごく優秀な人で、前は政治部の記者をしていた人なの。この前一緒にご飯を食べているときに、祖父が特攻隊員だったって言ったら、特攻隊の遺書を集めた本を貸してくれたの。そこには報国だとか忠孝だとかの文字がずらりと並んでいたわ。驚いたことに特攻隊委員たちは死ぬことを全然恐れていないの。むしろ散華する歓びすら感じている文章も有った。それを読んだとき、ああ、日本にもこんな狂信的な愛国者が大勢いた時代があったのかと思った。」
「そうなのか。でも僕のじいさんがテロリストだったなんてぴんとこないな」
イスラム自爆テロリストの孫も六十年後にはそんなことをいっているかもね。」
姉はパスタをほおばりながら言った。それからごくごくと水を飲んだ。色気も何もなかった。弟の僕が言うのも何だが、結構な美人なのに、およそ身だしなみや行動にかまうところがなかった。
「祖父は遺書を残したの。」
「残さなかったらしいわね」
「人生の形跡が全く無いんだね」
「だから調べるんじゃない。」
「で、僕は具体的に何をすればいい」
「おじいさんを知っている戦友たちを探してほしいの。私、今、すごく忙しくて、なかなかそこまで手が回らないの。だから健太郎にリサーチ役をお願いしたいのよ。前金を渡すから、頼むわよ」
姉は早口でそう言うと、ハンドバックから封筒取り出して僕の渡した。
「どうせ暇なんでしょ。調査は電話とファックスで何とかできるでしょう。戦友さえ探し当ててくれれば、その人たちに会ってのインタビューは私がするから。」
 僕は少しうんざりした気分で封筒を受け取った。
「ところで祖父が生きていたら、何歳なの?」
姉はポケットから手帳を取り出してページをくくった。
「大正八年生まれよ。生きていたら85歳ね」
「戦友に会うのは難しいかもしれないな。戦地に行った人たちは後数年でほとんど死に絶えることになるね。
「うーん」と姉は言った。「少し遅すぎたのかな」
 
引き受けるといったものの、一週間以上何もしなかった。
 しかし姉に何度か電話でせっつかれ、やっと思い腰を上げた。前金でお金をもらった以上、何もしないわけにはいかなかった。
 祖父の軍歴は、厚生労働省に問い合わせてわかった。
「宮部久蔵、大正八年生まれ、昭和九年海軍に入隊。昭和二十年、南西諸島沖で戦死」
 1行で書けば、祖父の人生はそういうことだ。もちろんその艦を詳しく書こうと思えばいくらでも書ける。最初は海兵団に入り兵器員になり、次に操縦練習生になってパイロットとなり、昭和十二年に支那事変に参加、昭和十六年に空母に乗り真珠湾攻撃に参加、その後は南方の島々を転戦し、二十年に内地に戻り、終戦の数日前に神風特攻隊員として戦死。
彼は一五歳から二十六歳までの十一年間、まさに人生で最高の時を軍隊に捧げ、後半の八年間はずっとパイロットとして戦い続けてきた。そのあげくに特攻で死に追いやられたのだ。しかも不運なのは、後数字値早く戦争が終わっていれば助かっていたことだ。
「生まれた時代が悪かったんだな。久蔵さんよ。」
と、僕は思わずつぶやいた。
私生活では昭和十六年に祖母と結婚している。母が生まれたのは十七年だ。結婚生活はわずかに四年、しかもその間はほとんど戦地にいたのだ。内地に帰っても、実際どれくらいの期間一緒に暮らせたのかはわからない。祖母がおじいちゃんに前の夫のことを語らなかったのも、隠していたからではなく、語るべき物が何もなかったからかもしれない。
 軍隊の遍歴を並べても祖父の人間性は何も出てこない。祖父がどんな人だったかを知るには、彼を憶えている人物に当たらないことにはどうにもならない。八十歳を超える当時の戦友たちもほとんど亡くなっているだろ。
 ちょっと遅すぎたかな、と姉と同じ言葉を心の中でつぶやいた。しかし見方を変えれば、今が間に合う最後の時かもしれないと思った。
 厚生労働省から旧海軍関係者の集まりである「水交会」の存在を教えてもらい、そこに問い合わせていくつかの戦友会を教えてもらった。
戦友会は海兵団の同期組の物も有れば、航空隊や航空母艦が一緒だった隊員の集まりもあった。ただ戦友会も高齢化に伴い、この数年多くの会が解散していると言うことだ。今まさに戦争経験者が歴史の舞台から消えようとしているのだった。
 教えてもらった戦友会野中に祖父のことを知っている人たちがどれだけいるかだか、板としても六十年前のことなどどれだけ憶えていられる物だろう。僕が六十年後、現在の友人のことを聞かれて、果たしてどんな記憶を蘇らせることができるだろうか。
しかしそんなことを考えていても何も始まらない。僕は戦友会に手当たり次第手紙を書いて、祖父のことを知っている人物がいないかどうかを尋ねた。
 二週間後、ある戦友会から返事が届いた。祖父と同じラバウルパイロットだった人がいるという知らせだった。返事をくれた人は戦友会の幹事をしている人で、大変な達筆で書かれていた上に、知らない漢字まである。全部は読めず、その手紙を持って姉と会った。
 姉は仕事で忙しいらしく、ようやく会えたのは、深夜のファミレスだった。
 文学部出身の姉も「達筆」の判読には苦労した様だった。
「六十年も世代が違うと漢字も読めなくなるんだなあ」
僕は手紙とにらめっこしている姉を見ながら、自分のことは棚に上げて言った。」
「私たちは新語しか知らないし、正字を全然習ってないからね。中には本の字と似ても似つかない字もあるわ。たとえばこの字」
姉は手紙の一時を指した。「これ読める?」
読めなかった。
「私はたまたま知っていたから読めた。これは連合艦隊よ」
「これが連か。全然違う字じゃないか。しんにゅうが耳偏だし、作りも全然違う」
姉は笑った。
「それに、この手紙は草書で書かれているから、読むのに苦労したわ。」
僕はため息をついた。「なんか、全然違う人種を相手にしている気分だよ」
「同じ日本人よ。おじいちゃんが違う人種に見える?あ、これは今生きている方のおじいちゃんよ」
「ぼくだって、おじいちゃんを違う人種とは思わないよ。でも、身内以外の八十過ぎの老人は、僕にとっては別人種に近いよ」
姉は手紙をテーブルに置くと、アイスコーヒーを飲みながら言った
「向こうもそう思っているかもね」
そんな人たちを相手にしていくのかと思うと、少々気が重くなった。

第二章臆病者

元海軍少尉、長谷川梅夫の家は埼玉県の郊外にあった。長谷川の旧姓は石岡だったから、戦後、養子にでも行ったのかもしれない。
東京から1時間、降り立った駅の周辺は一応、町の形をしていたが、少し歩くと風景は一変して田畝だらけになった。太陽は頭の真上にある。雲一つない。七月に入ったばかりというのに日差しはきつく、虫の声がやたらやかましかった。
都会の暑さとはまた違う刺すような日差しだった。本物の夏、という感じがした。
「暑いな」
僕は隣を歩く姉に言った。
「私は結構楽しいよ」
答えになっていないと思った。何かいらいらしてきた。
姉は、インタビューは自分がすると言っていたのに、直前になって僕についてきてと言い出したのだ。「最初だけ、お願い」と姉に強く頼まれると、ついつい断れず了承してしまったのだが、暑い田舎道を歩きながら大いに後悔した。
「ところで、戦争のこと少しは勉強したの?」
「そんな暇無いわよ」と姉は言った。
「それに余計な先入観を持たないでインタビューしたいしね」
相変わらず勝手なことを言うとと思ったが、黙っていた。
駅から30分は歩いただろうか、全身が汗でびっしょりになった。さすがの姉も途中からほとんどしゃべらなくなった。

教えられた住所を頼りにしてついた家は、小さな農家だった。
平屋で、築五十年くらいは経っている感じだった。周辺は畑で、玄関前の空き地には軽トラックが置いてあった。どちらかと言えばみすぼらしい家だった。元海軍少尉という肩書きから、立派な家を想像していた僕は、肩すかしを食らった気分だった。姉を見ると、彼女もまた家を観察するようにしげしげと眺めていた。僕はガラス戸の横についた呼び鈴のボタンを押したが、いくら待っても何の応答もなかった。どうやら壊れているようだった。
ガラス戸越しに声をかけた。すぐに中から、どうぞ、と言う張りのある大きな声が帰ってきた。
 玄関を入るとやせ細った老人が立っていた。その姿を見たときどきっとした。。老人が着ていた青い開襟シャツの左半袖部分からは先に腕がなかったからだ。それが長谷川だった。
 玄関横の応接室に通された。何かとってつけた様な部屋で、狭い四畳半くらいの部屋の中に、木製のテーブルが置かれてあった。壁には複製の絵が掛けられ、天井には安っぽいシャンデリアが下げられていた。ただ部屋の中は恐ろしく暑かった。たぶん、プレハブで応接室を増設したのだろう。部屋に入ったとたん、体中から汗が噴き出したがクーラーをつけてくれとはいえなかった。
長谷川は白髪をオールバックにして、口ひげを生やしていた。人を値踏みするような細い目つきで僕たちを見た。
 姉は黙っている長谷川に、改めて今回の訪問の目的を話した。すなわち自分たちの祖父である宮部久蔵がどんな人だったかをしりたいと言うことをだ。
 その間、長谷川は僕たちの顔を交互に見つめていた。部屋の暑さで汗がどんどん出てきた。
 「手紙には男性の名前が書かれていたが?」
長谷川は聞いた。
「連絡は弟に任せていましたから」と姉は説明した。
長谷川は納得したように頷いた。それからもう一度二人の顔をじっと見つめた。
「あのう」と姉が口を開いた。「長谷川さんは祖父をご存じだとか?」
「知っている」長谷川は間髪入れずに言った。「やつは海軍航空隊一の臆病者だった」
僕は、えっ、と思った。
「宮部久蔵は何よりも命を惜しむ男だった」
姉の顔がさっと赤くなった。僕はテーブルの下で姉の膝に手を当てた。姉は大丈夫という風に僕の手を押さえた。
姉は努めて冷静な声で聞いた。
「それはどういうことなのでしょうか」
「どういうことなのでしょう?」
長谷川は姉の言葉を繰り返した。
「そのものずばり、命が惜しくてたまらないと言う男だった。我々飛行機乗りは、命を国に預けていた。わしは戦闘機乗りになった時から命は自分の物とは思ってなかった。絶対畳の上では死なないと思っていた。なら、考えることなただ一つだ、どう死ぬか、だ」
長谷川は言いながら、右手で左肩を触った。腕のない左袖が揺れた。
「わしはいつでも死ねる覚悟ができていた。どんな戦場にあっても、命が惜しいと思ったことは無い。しかし宮部久蔵という男はそうではなかった。。やつはいつでも逃げ回っていた。勝つことよりも己の命が助かることがやつの一番ののぞみだった。」
「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが。」
長谷川はじろりと姉をにらんだ。
「それは女の感情だ」
「どういう意味でしょう」
僕は小さな声で、姉さん、と言った。しかし彼女は聞こえないふりをした。
「男も女も同じだと思います。自分の命を大切にするというのは当たり前のことじゃ何ですか」
「それはね、お嬢さん。平和な時代の考え方だよ。我々は日本という国が滅ぶかどうかと言う戦いをしていたんだ。たとえわしが死んでも、それで国が残ればいい、と言うところが宮部という男は違った。あいつは戦場から逃げ回っていたんだ」
「それってすばらしい考えだと思いますが」
「すばらしいだと!」長谷川は声を上げた。「戦場で逃げ回る兵隊がいてたら戦いになるか」
「みんながそういう考え方であれば、戦争なんか起きないと思います」
長谷川はぽかんと口を開けた。
「あんたは学校で何を習ってきたんだ。世界の歴史を学ばなかったのか。人類の歴史は戦争の歴史だ。もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう。そんなことは誰もわかっている。だが誰も戦争をなくせない」
「戦争は必要悪と言いたいのですか?」
「今ここで戦争が必要悪かどうかをあんたと議論しても無意味だ。そんな物はあんたが会社に戻って、上司や同僚と思う存分やれ。それで戦争をなくす方法が見つかれば、本にでもすればいい。世界の首脳たちに送れば、明日にでも戦争はなくなるだろうよ。なんなら、今も紛争を続けている地域にでも行って、みんなで逃げ回れば紛争はなくなります。と説いて回ればいい」
姉は唇をかんだ。
「いいか戦場は戦うところだ。逃げる所じゃない。あの戦争が侵略戦争だったか、自営のための戦争だったかは、わしたち兵士にとって関係ない。戦場に出れば、目の前の敵を討つ。それが兵士の務めだ。和平や停戦は政治家の仕事だ。違うか」
長谷川は言いながらまた右手で腕のない左肩を触った。
「宮部はいつも戦場から逃げ回っていた
姉は答えなかった。
「祖父のことは嫌いだったのですね」と僕は聞いた。
長谷川は僕の方を見た。
「わしが宮部のことを臆病者というのは、やつが飛行機乗りだからだ。やつが赤紙で招集された兵隊なら、命が惜しいと言ったところで何も言わん。だがやつは志願兵だった。」
自ら軍人になりたいと望んでなった航空兵だ。それ故わしはやつが許せん。こんなわしの話が聞きたいか」
黙っている姉の代わりに僕が「お願いします」と言った。
長谷川は鼻をフンと言わせた。
僕はボイスレコーダーを使ってよいか尋ねた。長谷川はかまわんと言った。僕がボイスレコーダーのスイッチを入れると、長谷川が言った。
「よかろう。では、話そう」

わしが海軍に入ったのは昭和十一年の春だ。わしは埼玉県の農家に生まれた。八人兄弟の6番目だ。家は小作農だった。生きていくのが精一杯の、いわゆる水飲み百姓だ。
まあ聞け、軍隊と飛行機乗りのことを知らなければ、わしがなぜやつのことが嫌いなのかも理解できないだろう。
わしは尋常小学校の頃から勉強ができた。自慢ではないが、ずっと首席だった。しかし高等小学校に行かせてもらうのが精一杯で、中学には進めなかった。その頃の村のこどもたちはほとんどがそうだった。中学へ進んだは庄屋のせがれぐらいなもんさ。先生は「こんな優秀な子が中学へ進めないのは惜しい」と父に言ってくれたが、どうしようも無いことだ。わしの三人の兄も優秀だったが誰も中学に行っていない。
 高等小学校を卒業すると、口減らしのために奉公に出された。奉公先は大阪の豆腐屋だった。仕事はつらかった。朝が早くて、夜が遅かった。冬のつらさといったらなかった。
冷たい水に手をつけ続けていると、指の感覚がなくなってくる。わしはしもやけになりやすいたちで、冬の間はずっと悩まされ続けた。指が赤黒く変色し、皮が破れて、血が出た。それが治りきらないうちに、別の皮が破れた。。その指を冷たい水に浸けるときは、劇痛が走った。
 わしは何度も泣いた。しかし主人は厳しい男だった。しもやけなどができるのは甘ったれた性格だからと言われた。俺は何十年もこの仕事をやっているが一度もしもやけになったことがない、と。
主人には何度も殴らた。今にして思えばあれは一種の病気だったな。残忍な性格だった。人を殴るのが好きだったのだ。まるでわしを雇ったのは殴るためかと思うくらい毎日殴られた。泣いているだけで殴られた。
 奉公に出るときの夜間中学に通わせてやるという約束もすぐ反古にされた。
 しかし耐えるしかなかった。逃げて帰るところはどこにもなかったからだ。二年後、わしは6尺近くなっていた。体重も二十貫近くなっていた。
 主人はその変化に気づいていなかったようだ。ある日、虫の居所が悪かったらしく、いつものようにわしを殴りつけた。わしに非はなかった。わしは怒り、生まれて初めて主人を殴った。主人は怒り狂った。殺してやると、棍棒で殴りかかってきた。わしは棍棒を取り上げ、逆にそれで打った。主人は急に泣きながら謝った。許してくれと何度も言いながら、土下座した。主人の嬶も飛んできて、許してやってくれと頼んだ。今までわしがさんざん殴られていても、一度求めなかった女が、主人が殴られるのを見ただけで、泣きながら止めるのだ。それを見た途端、これまで以上に激しい怒りを覚えた。こんな奴らにわしは何度も殴られていたのか。わしは女を蹴り倒すと、主人を棍棒で何度も殴りつけた。主因は泣きながら許してくれと叫んでいたが、そのうちに気を失った。わしは店を飛び出し、駅に向かった。帰るところは故郷敷かなかった。しかし始発電車が来る前に警察に捕まった。未成年と言うことで、刑務所に入れられることはなかったが警官には気絶するほど殴られた。
もう行くと所は軍隊しかなかった。わしは海軍を志願して、入隊が認められた。海軍では巡洋艦の機関兵になった。そこでも毎日殴られた。いったい日本の軍隊ほど人を殴り所はないだろう。陸軍もひどいと言うが、海軍はそれ以上だったと言う話だ。なぜなら陸軍の兵隊は鉄砲を持っているからだという。いざ前線に出ると、球は前から飛んでくるとは限らない。あまりに恨みを買うと、戦場で後ろから撃たれると言う子もあったらしい。それで殴るときも陸軍ではほどほどのところでやめたと言うことだ。しかし海軍の兵隊は銃を持っていない。それで海軍では上官が兵隊を思う存分殴れたという。嘘かほんとかは知らない。しかしさんざん殴られたことは確かだ。
海軍に入って三年目、航空兵を募集していることを知った。わしは航空兵になることを夢見て、必死で勉強した。艦隊での勤務が終わって、わずかな自由時間に勉強した。
 試験は合格した。たいそうな競争率だと聞いている。我ながらたいした物だと思う。
 こうしてわしは操縦練習生となった。いわゆる海軍伝統の繰連だ。そういえば宮部のやつも繰連出身だったな。やつはわしよりも何期か上だ。霞ヶ浦航空隊での訓練は厳しかった。しかしそれまでの艦隊勤務に比べたら、何ほどの物ではなかった。それにわしは飛行機に惚れ込んだ。飛行訓練のすべてが好きになった。
 小学校を卒業して以来、生まれて初めて生きる喜びを味わった。わしの生きるところはここだと思った。当時、飛行機乗りになると言うことは、命を捨てる覚悟が必要だった。飛行機乗りは、いざ戦争になったら、常に敵地深く攻め込み、敵と正面から戦う。あるいは我が軍まで深く攻め込んでくる敵と戦う。草でなくても飛行機は常に死と隣り合わせだ。当時の飛行機は信頼性が高くない。故障は珍しくなかったし、事実、訓練中にも貴い犠牲は少なくなかった。しかしわしは怖いと思ったことはなかった。わしらは平時の安全飛行の訓練をしているわけではない。ぎりぎりの場での命のやりとりをする訓練をしているのだ。
 自分のすべてを飛行機に賭けようと決めた。大げさではなく全身全霊で訓練に打ち込んだ。
 練習生の多くもわしとおんなじだったと思う。皆訓練には必死で取り組んだ。文字通り死にものぐるいだった。なぜなら訓練生が全員、操縦員になるとは限らないからだ。適性を見て、操縦員に不適となれば、爆撃機攻撃機の偵察員や通信員になる。操縦員になれなかった奴らは泣いた。
その操縦員もさらに技量と適性を見て、戦闘機と爆撃機攻撃機に分けられる。最も優秀な訓練生が戦闘機の搭乗員になる。わしは戦闘機乗りにえらばれた。
 繰練を卒業すると、中国の漢口に配属になった。昭和十六年のはじめだ。
 中国では初めは96式艦上戦闘機に乗っていた。零戦ほどではないが、これはいい戦闘機だった。わしは96艦戰で中国機を何機も落とした。
 その年も暮れ、大東亜戦争が始まった。真珠湾攻撃のことを知ったとき、地団駄を踏んだ。
 わしの夢は第一航空母艦「赤城」に乗ることだった。母艦搭乗員となって米国と戦いたかった。もし「赤城」に乗れたら死んでもいいと思っていた。
 しかしその願いは叶えられなかった。飛行機は96艦戰から零戦に変わったが、中国空軍は零戦との戦いを徹底的に避けるようになっていたから、零戦での撃墜の機会はついに無かった。年が明けて三月、わしは第三航空隊に転属になり、ボルネオに行った。前年にフィリピンの米軍基地を台南航空隊が撃滅してから、日本はまさに破竹の進撃で、東南アジアから蘭印を次々支配下に置いていった。まさに向かうところ敵なし状況だった。わしらも日本軍の侵攻に合わせて、ボルネオ、セレベス、スマトラ、ジャワへと進出した。ジャワはどこに行っても色の黒い先住民がいた。男も女も裸同然の格好で、「冒険ダン吉
の世界だと思った。あいつらはわしらを不思議そうに見ていたな。
最終的に行き着いたのはチモール島のクーパンという基地だ。そこがオーストラリアのダーウインの攻略の拠点となった。そこでわしは生まれて初めて米英の戦闘機と戦った。初陣でP−40を落とした。米英機は中国空軍とは違うぞ言われていたので警戒していたが、たいしたことなかった。
 わしは改めて零戦のすごさを知らされた、あれは本当にすばらしい戦闘機だった。米英機も零戦には全く歯が立たなかった。格闘戦で旋回戦に入ると、苦も無く後ろにつくことができた。20ミリ機銃を撃つと、鉄器は吹っ飛んだ。P39、P40、ハリケーン、欧州でドイツ空軍を苦しめたというイギリスのスピットファイアーとも戦った。どれも零戦の敵ではなかった。零戦はまさに戦いの申し子のような飛行機だった。出撃のたびに多くの敵機を屠った。部隊として百機以上は落としただろう。その間我が方の損害は十機もなかったはずだ。わしも五機撃墜した。
 わしはいつも敵戦闘機にとことん肉薄して弾を打ち込んだ。「石岡の体当たり戦法」と仲間内で呼ばれていた。その頃のわしの名前は石岡だ。
 弾という物はなかなか当たる物ではない。訓練では100メートルの距離で撃てと教えられていたが、実戦になると、たいていの者は恐怖心から200メートル以上離れている距離から撃ち出す。これでは当たらない。わしはいつも50メートル以内に近寄って撃つ。
それぐらい近づくと鉄器は照準器から大きくはみ出す。だからわしは発射レバーを引いて外したことは滅多に無い。
 それにしても実戦に勝る訓練はない。その頃、わしらの技量はかなりの者だった。母艦搭乗員は優秀と言われていたが、わしらとは実戦での経験数が全く違う。空母に配属になった時には高い技量を持ていただろうが、所詮発着艦のうまさや模擬空戦のうまさに過ぎない。
 模擬空戦がいかに強くとも、それは実戦ではない。命のやりとりを毎日繰り返した者と草でないものとの差はとてつもなく大きい。たとえてみれば、道場剣法と実戦剣法の差だ。
竹刀での打ち合いが強くても真剣で勝てるとは限らない。むしろ何度も人を切った者の方が強い。わしは母艦搭乗員よりも腕があるという自負を持っていた。
 わしがラバウルに配属になったのは昭和十七年の秋だった。
その夏に始まったガダルカナルの攻防戦で、三空の一部がラバウルに進出したのだ。わしらは台南航空隊の指揮下に入った。
ガダルカナルはきびしいせんじょうだった。ラバウルから長躯千キロを飛んでいくのだが、これまでこんな距離を侵攻したことがない。何しろ片道三時間だ。それに敵戦闘機はポートだーウインの奴らよりも遙かに骨があった。出撃初日で、わしと共にラバウルに来た三空のベテランが二人未帰還となった。
 こいつはえらいところに来たぞ、と思った。
出撃はほぼ毎日あった。そのたびに多くの未帰還機が出た。こんなことはクーパンではあまりなかった。しかしラバウルの連中は別に驚きもしない。ここではこれが当たり前なのだった。帰投した飛行機もたいてい銃弾を受けていた。無傷で帰ってくるとなどと言うことは少なかった。
だが、そんな戦場でも宮部はいつも全く無傷で帰ってきた。出撃した半数近くがやられるような激しい戦いでも、やつはしれっとした顔で帰ってきたし、その機体も出撃の時と同じ綺麗なままだった。やつが率いていた列機もたいていは無傷で帰ってきた。
腕があると言いたいのだろう。だが、それは違う。
わしはラバウルの古参搭乗員に、なぜ宮部はいつも無傷なのかを聞いた。腕があるのかと、そいつは苦笑いをしながら言った。「あいつは逃げるのがうまいからな」

 いいか、空の戦場は地面の上とは全く違う。いったん敵味方の飛行機が入り乱れて乱戦になると、もうどいつが敵か味方かわからなくなる。ある意味、平地の戦場よりも恐ろしい。空の上では塹壕などというものもない。全部がむき出しだ。敵は前後左右どころか、上下にもいるのだ。目の前を敵が逃げていく。それを追う。しかしその後ろから敵が追う。そしてその敵をさらに味方が追う。さらにその後ろには、今度は味方がそれを追う。敵側と味方側に分かれての戦いとは根本的に違う。
 そしてわしは見た。
 あれは確か九月の半ばだった。ガダルカナル上空で、待ち構えていた敵戦闘機との乱戦になった。敵はグラマンF4Fだった。ずんぐりむっくりした頑丈なやつだ。こいつは零戦のような軽快性はないが、その代わりめっぽう撃たれ強かった。
わしは列機とはぐれ、2機のグラマンにつかれた。二機のグラマンはうまい追尾を見せた。わしが一機のグラマンの後方につくと。すぐにもう一機がわしの後方についた。それを振り切って、その機の後ろにつくと、今度は先ほどの一機がわしの後方につく、我々も編隊戦闘では、お互いの列機の死角を補うように戦うのが決まりだったが、こうまで徹底してはいなかった。おそらく無線性能の違いだろう。当時の我々の無線ときたら全くお粗末な者で、雑音ばかりで何も聞き取れなかった。わしなどは操縦席から無線機を外し、アンテナをのこぎりで切り落としていたくらいだ。無用の長物の無線器重量を減らしたかったし、アンテナのわずかな空気抵抗さえも惜しかったのだ。
 しかし零戦の性能は一対二位で不利になるほどではない。わしは何度目かにグラマンに後ろに付かれたとき、慌てて逃げるふりをして、わしが標的にしていたグラマンの前に飛び出した。瞬間的に二機のグラマンに同時に追われる形にしたのだ。二機のグラマンは同時にわしを追った。わしはこのときを待っていた。
 操縦桿を思いっきり引いて、宙返りに持ち込んだ。二機は同時に宙返りでわしを追った。それが命取りだった。零戦に宙返りで勝てる戦闘機はなかった。零戦の旋回範囲のみじかさは桁外れだ。それは敵も知っていたはずだが、目の前のチャンスに一瞬それを忘れたのだ。一回の旋回で、一機の後方にぴたりとつけた。一連射でグラマンは火を噴いた。もう一機は全速急降下で逃げた。追おうとしたが、宙返りで速度を失っていたから、あきらめた。
その時、わしは戦場から大きく離れているのに気がついた。飛行機というものは旋回を繰り返すと、高度を大きく下げる。わしは二機のグラマンと戦っている間に2000メートルくらい高度を下げていたのだ。上空ではまだ多くの飛行機が入り乱れて戦っている。わしは再び戦場に戻るために、機首を上げた。。その時、ふと上空を見ると、戦場から遙か離れた所に、三機の零戦が悠々と飛んでいるのが見えた。それが宮部の小隊だった。
 やつは二機の列機をつれていち早く戦場を離れ、高みの見物をしていたのだ。もちろん証拠はない。わしと同じ様にたまたま戦場から離れた所だったかもしれん。しかしそうではないと思っている。これはわしの確信だ。
 なぜかだと。やつは大変な臆病者だったからだ。
 やつは飛行中もとにかく見張りを欠かさない男だった。飛行機乗りにとって見張りほど重要な物はない。一流と呼ばれるやつはみんな目がよかった。見張りを欠かさず、必ず先に敵を見つけていた。ところがやつの見張りは度を超していた。とにかく飛んでいる間、ずっと周辺をきょろきょろと見張ってばかりいた。これには皆あきれていた。あいつはよほどの恐がりだと陰口をたたくやつは何人もいた。音に聞こえたラバウル航空隊にこんな搭乗員がいたとは驚いた。
 ラバウルは搭乗員の墓場と呼ばれていた。そんなところでやつは生き残り続けた。ふん、そりゃあ生き残るだろう。戦場から逃げてばかりいれば死ぬことはないからな。

やつの「お命大事」は隊でも物笑いのたねだった。やつの「名言」を知らない物はない。「生きて帰りたい」だ。どこで漏らしたかは知らん。しかし噂になっていたほどだから、何度もはいた言葉だだったのだろう。
 帝国海軍軍人なら、絶対に言わない言葉だ。まして航空隊なら死んでも口に出してはならない言葉だ。わしらは赤紙で招集された兵隊ではない。自ら海軍に入り、自ら航空兵を志願したのだ。そんな男が「生きて帰りたい」だと。もしわしがそれを聞いたなら、その場で殴っていただろう。当時やつは一飛曹で、わしは三飛曹だった。もちろん上官を殴るのだから禁固刑は覚悟の上だ。何度も言うが、わしらは飛行機乗りだ。飛行機乗りにとっては、「死」ほど身近な物はない。操縦訓練生の時から、「死」は常に隣り合わせにあった。旋回訓練や急降下訓練で死んだ同期は何人もいる。零戦が生まれたときも、何人ものテストパイロットが殉職したと聞いている。
 それなのに、戦場にあって、「生きて帰りたい」だと。
 毎日のように戦友が未帰還になり、それでも皆が必死で戦っている中で、自分一人が助かりたいとはどおゆう神経だ。
 まだあるぞ。宮部の臆病ぶりを示す話だ。落下傘だ。
 奴はいつも落下傘の点検を怠らなかった。わしは一度、そのことで皮肉を言ったことがある。
「宮部一飛曹、落下傘でどこに降りられるつもりですか。」
奴はわしの皮肉に笑って答えた。
「落下傘は大切な物です。自分は列機にもきちんと付けさせます」
不思議そうな顔をしているな。落下傘は必需品ではないかというのだろう。それはとんでもない間違えだ。我々が戦っているのは広大な太平洋の上だ。それも戦場は大抵敵地上空だ。落下傘で脱出しても、敵兵に殺されるのがオチだ。また、敵地からの帰途、飛行機がダメになって脱出しても、海の上だ。溺れ死ぬか、鱶の餌になるのが関の山だ。


当時、我々戦闘機乗りたちは誰もまともな落下傘なんか持っていなかった。尾籠な話で申し訳ないが、俺等は落下傘の中に小便をしていた。搭乗員たちは飛行機の中に何時間もいる。途中で催しても陸地と違い、道端で立ち小便というわけにもいかない。実は小便用の紙袋というものがあったのだが、飛行機を操縦しながら、自分の一物を引っ張りだしてそんな袋に器用に入れるというのは恐ろしく面倒くさい。小便中にもいつ敵が襲ってくるのかわからない。むしろそんなものに気を取られている時が一番危ない。しかも済ましたあと、今度はそれをうまく機外に放り出さなければならない。風防を少しだけ開けて、中身だけ捨てるのだが、下手をすると、風をくらってまともに小便を浴びることになる。小便をかぶったことのない戦闘機乗りはいないだろう。で、どうするかと言えば、落下傘の中にしてしまうのだ。股間の間に落下傘を挟んで、少しづつ染み込ませていくのだ。ラバウルの戦闘機乗りたちはほとんど皆そうしているはずだ。だからどの落下傘もすさまじい臭がした。中は一体どうなっていたのか想像し見る気もなかったがな。
 確かに戦争末期の本土防空での戦いでは、多くの搭乗員が落下傘をつけていた。落下傘脱出して降り立ったところは日本の地だからだ。それに侵攻戦ではないから何時間も空の上にいるわけではない。小便で苦労することもないということだ。
 しかし宮部はラバウルでも必ず落下傘を用意していた。それも万が一に備えて、定期的に広げて点検までする念の入れようだった。奴が落下傘を利用する機会があれば良かったのにと思う。
 ある日わしは落下傘を折りたたんでいる宮部に言った。
「そこまで丁寧に点検していれば、万に一つも開かないということはないでしょうね」
奴は皮肉に気が付かなかったのか、サラリと答えたよ。
「そんな機会がないように願いたいものです」
わしは返す言葉がなっかたよ。
 そうだ落下傘のことで思い出したことがある。
 奴は落下傘で降下中の米兵を撃ち殺したのだ。場所はガダルカナルだ。奴自身が空戦で落としたグラマンから落下傘脱出した搭乗員を機銃で撃ち殺したのだ。有名な話だ。わしは直接見ていない。しかしこの時一緒にいた連中から聞いた話だ。目撃者も何人かいる。
 その話を聞いた時虫唾が走った。海軍軍人の風上にも置けないやつだと思った。
 空戦は鉄器を撃墜した時点で勝負が付いている。米搭乗兵はたしかに敵だが、すでに乗機を失って落下傘で逃げるだけの男を殺す必要があるのか。戦場にも武士の情けというものがあるだろう。奴のしたことは、戦場で武器をなくして戦えなくなって倒れている男を切ったのと同じことだ。わしはその話を聞いて、宮部という男が心底嫌いになった。わしと同じように思っていた奴は少なくなかったはずだ。
 わしも空戦以外の機銃掃射をしたことはある。しかしいずれも高射砲や艦船相手のの銃撃で、丸腰の人間を売ったことは一度もない。それは卑怯者のすることだと思う。
 わかるか、奴はそういう男なのだ。危険な戦場からはいつも逃げまわるくせに、無抵抗な人間を平気で撃ち殺す男なんだ。いや、そういう男だからこそ、そんな行為ができるのかもしれんな。

わしは戦闘機乗りになった時から、立派に戦って、立派に死のうと思った。だから死ぬときも勇敢で男らしく有りたかった。空戦でも逃げたことはない。それがわしの勲章だ。実際に勲章はもらわなかったが、それだけはわしの誇りだ。

 わしは空戦で片腕を失った。ガダルカナルの戦場だ。あれは十七年の10月だった。
 その日わしは中攻の直援機だった。中攻というのは海軍の一式陸攻と言う中型攻撃機の略称だ。攻撃機は速度が遅い。敵戦闘機に狙わればひとたまりも無い。それで中攻には必ず零戦が護衛に付いた。零戦というのは本来は護衛戦闘機なのだ。
 その日の中攻の目標はガダルカナルの敵輸送船団だった。。中攻は十二機、零戦も十二機だった。その中に宮部の奴もいた。
ガダルカナル上空では敵戦闘機が待ち構えていた。その日の米軍の邀撃は激しかった。「ようげき」というのは迎撃のことだ。帝国海軍では邀撃と言った。敵機は四十機以上いたのではないか。わしらは中攻を守りながらグラマンと戦った。
わしは懸命に中攻を守ったが、敵は零戦との格闘を避け、中攻ばかりを狙ってきた。敵機を追いかけると、別のやつがs中攻に襲いかかる。中攻は次々に火を噴いて、落ちていった。まるでオオカミの群れを相手にする物だった。
 直掩任務は何よりも中攻を守ることが最優先とされた。敵機を撃墜するよりも中攻を撃墜されないことが大切だった。敵を深追いして中攻から離れた隙を狙われれば、中攻はやられる。中攻には七人乗っているし、何よりも適否恒常をたたくための爆弾を抱えている。
中攻の搭乗員はその一撃のために命を賭けている。直掩隊は、自らの身を挺してでも中攻を守れと言われていた。それがわしらの任務だった。
 中攻隊が爆撃進路に入ろうとしたとき、一瞬、編隊の上に隙ができた。そこにグラマンが二機襲いかかった。わしは間に合わんとみて咄嗟に中攻隊と敵戦闘機の間に機を滑り込ませた。考えての行動ではない。援護機としての本能的な物だった。
 次の瞬間、わしは頭上~撃たれた。風防がが吹っ飛び、頭に衝撃を受け一瞬目の前が真っ暗になった。しかしすぐに意識を取り戻して、後ろを見た。中攻は無事だった。
 その時わしは左腕がひどく痛むもに気がついた。見ると、肩から下が血で真っ赤だった。わしは一旦空戦域から退避して飛行機を調べた。翼も胴体も穴だらけだったが、幸運なことに燃料タンクと発動機は被弾していなかった。
 空襲が終わり、わしはほとんど片手でラバウルに帰り着いた。途中、痛みと貧血で何度も気を失いかけたが、懸命に飛んだ。その日、中攻は六機が未帰還。零戦も三機が未帰還だった。きつい戦いだった。帰還した零戦もほとんどが機体に弾痕があった。
 後に知ったが、このときも宮部の機体にはただの一発も機銃痕は無かったと言う。これほど厳しい戦場でも、やつは全くの無傷だったのだ。その日は確か奴も直掩隊だった。わしらが懸命に戦っている間、奴はどこにいたのだ。わしが左手を打たれている間どこを飛んでいたのだ。
 結局左手を失うことになった。内地にいれば、あるいは切断しなくても済んだかもしれん、
 わしがラバウルにいたのは二ヶ月半足らずだこれが長いのか短いのかはわからん。 
 戦闘機のりとして生きたのは正味1年半だった。
わしの戦後の人生は苦難の連続だった。
 国に命を捧げて片腕を失ったわしに世間は冷たかった。少尉になって除隊したが、そんな肩書きは戦後の社会では何も通用しない。それに終戦後に進級したいわゆる「ポツダム少尉」だ。片腕の男にやる仕事はなかった。若い頃、口減らしのために田舎を放り出されたのに、結局ここに舞い戻る羽目に羽目になってしまった。
 それでも世話をする人がいて、嫁をもらった。まあ、入り婿だから嫁をもらったというもは正しくないかもしれんが。もし腕を失わなかったらもっていい人生を待っていただろう。いや、腕を失わなかったら、大空で死んでいたかもしれんな。それでもよかった。わしは死ぬことを少しも恐れていなかった。こんな田舎で土にまみれて惨めに生きるより、男なら華々しく散る方がすばらしくないか。
この年になって、つくづく思う。わしも特攻で死にたかった。五体満足で有れば必ず志願していただろう。
 わしがうでを失った三年後、宮部は特攻で死んだ。おそらく奴は志願はしなかっただろう。命令で嫌々ながら特攻に行かされたに違いない。命を投げ出して戦った者がこうして命を長らえ、あれほど命を大事にして助かりたかった男が死んだ。
これが人生の皮肉でないとしたら何だ。
六時を過ぎていたが、日はまだ明るかった。
 駅までの帰路、僕の足取りは重かった。それは姉も同じだったろう。姉の顔は厳しかった。
 姉のハンドバックの中には長谷川の声の入ったボイスレコーダーがあったが果たして姉がもう一度聞き直す気があるかは疑問だった。
 不快な対談だった。いや、対談などではない。長谷川が一方的に語っているだけだった。
不快な対談だった。いや、対談などではない。長谷川が一方的に語っているだけだった。
彼は話せば話すほど、祖父に対する憎しみを思い返すようで、それを僕らに対してぶつけてきた。その悪意と敵意に満ちたまなざしに、僕は圧倒された。
「いやな人だったな」
長谷川の家を出てかなり立ってから僕は言った。
「彼は運命を憎んでいるんいるんだろうな。片腕を無くしたことで、自分の人生が奪われたと思っているのかもしれない。腕を無くしたことも祖父の性にしているんだ」
姉はしばらく黙っていたが、ぽつりと言った。
「かわいそうな人だわ」
僕は一瞬言葉を失った。
「戦争の話を初めて聞いた。聞いていて辛かった。あの人の気持ちもわかる気がする。きっと戦後も大変な苦労をしたのね。」
僕は言い返さなかった。それどころか、姉の言葉を聞いて、辛辣な言い方をした自分を恥ずかしく思った。
二人は数時間前に歩いた道を、しばらくの間黙って歩いた。
「でも祖父の話は作り話とは思えなかったね。」
僕の言葉に姉は小さくため息をついた。
「総値だから本当言うと、おじいさんには少しがっかりしたわ。本特攻隊員と言うから、もっと勇ましい人かと思っていたら、臆病者だったなんて。私は反戦思想の持ち主だから、おじいさんには勇敢な兵士であってほしくはないけど、それとは別にがっかりしたわ。健太郎もがっかりこない?」
 僕は黙ってうなずいた。僕の心にも祖父が臆病者だったという台詞はずっしりと残っていた。祖父は命大事に空を逃げ回っていた男だったのだ。その時、初めて「臆病者」と言う言葉は自分に言われた言葉として受け止めていたことの気がついた。なぜなら僕自身がいつも逃げていたからだ。僕には祖父の血が流れていたのか。
 もちろん祖父が逃げていたのは「死」からで、僕とは全然違う。それでも祖父が戦闘機乗りの務めから逃げていたことは確かだ。
しかし僕はいったい何から逃げているのだろうか。
「ああ、もうこの調査するのが辛くなってきたわ」
 姉は誰に言うともなくつぶやくようにいった。その気持ちは僕も同じだった。
第三章 真珠湾
長谷川に会った翌週、祖父の家を訪ねた。実の祖父の調査をしていることをいうためだった。
姉からは、わざわざ告げる必要は無いと言われていたが、大好きな祖父に隠れて行動するのはいやだった。言ったところで祖父はそんなことで気を悪くしないと思っていた。
ただ心配なこともあった。祖父は去年心臓を悪くして以来、自宅で療養していたからだ。ずっと続けてきた弁護士の仕事も数年前からほぼ引退状態で、事務所も人任せだった。身の回りのことは通いの家政婦さんがしてくれていた。
「弁護士になって早く私の事務所に来い」というのが口癖だったが、最近はそれも言わなくなった。それはそれでちょっと寂しい所でもあったのだが。国鉄職員を十年続けてから司法試験に受かった祖父にしてみれば、
三年や四年の回り道などたいしたことでは無いと思っていたのかもしれない。

祖父の家には先客がいた。昔、祖父の事務所でアルバイトをしていた藤木秀一だ。
藤木はかつて司法試験を目指していた苦学生で、卒業後も祖父の事務所で働きながら勉強を続けてきた。しかし数年前に実家の父が病気で倒れ、家業の鉄工所を継ぐために、司法試験を断念して故郷に帰ったのだ。
 前日に、大学時代の同窓会が有り、久しぶりに祖父を訪ねてきたのだった。
「藤木さん、お久しぶりです」
「こちらこそ」
藤木と会うのは二年ぶりだった。藤木は上京した折りは必ず祖父の家に顔をだしてくれていた。
「それにしても健ちゃんは立派になったなあ。僕が先生の所をやめた時は高校生だったもんな

この台詞は前にあったときも言われた。
僕は彼の口から「今年はどうだった?」と言う言葉が出るのが怖かった。藤木には、ずっと「健ちゃんみたいな頭ののいい子は見たことが無いよ。司法試験なんて、学生時代に受かってしまうよ。」と本気で言われていたからだ。
彼にはよく可愛がってもらった。しかし藤木は僕の現在に関しては何も触れなかった。僕は彼の優しさを感じた。
「藤木さんの鉄工所はどうなの」
「うまくいかない」藤木さんはそう言って笑った。
「やればやるだけ赤字みたいな会社で、本当は工場も畳みたいんだけど、従業員がいるから、そういうわけにはいかないし」
 藤木はそう言って白井もが見え始めた頭をかいた。疲れた中年男という感じだった。いつも明るくて万年青年みたいだった藤木のそんな姿を見るのはちょっと辛かった。その司法試験浪人のなれの果ての姿は、何か僕の将来を見るような気もした。
「藤木さんは結婚しているの」
「いやまだだよ。工場で必死に働いているうちに36歳になってしまった」
藤木はそう言って笑った。
藤木はまもなく祖父と僕に挨拶して帰って行った。
藤木が帰っていった後、祖父は言った。
「あいつが事務所に来ていた頃は、私もまだ現役でが張っていたなあ」
そして少し物思いにふける顔をした。
「おじいちゃん」と、僕は思いきって言った。「今、宮部久蔵さんのことを調べているんだ」
 祖父の顔が一瞬硬くなったような気がした。僕はしまったと思った。やはり祖父にとって不快なことだったのだ。
「松乃の前の夫だな。」
僕は姉に頼まれたこと、母が実の父のことについて知りたがっていると言うことを慌てて説明した。
「清子が」
祖父はそう言った後で、そうか、と小さくつぶやいた。
「母さんの気持ち僕もわかるよ」
祖父はじっと僕の目を見つめた。その目はちょっと怖い様なまなざしだった。
祖母が亡くなった時、祖父は遺体にすがりついて号泣した。祖父が泣く姿を初めて見た。病院の看護婦まで思わずもらい泣きするするほど激しいものだった。
祖父は心から祖母を愛していたのだ。
それだけにかつて祖母が別の男の妻だったと言う事実は、祖父にとってはいやな思い出かもしれないと思った。古い時代の男性は女性に純潔を求めたというしまして祖母は別の男の子供まで産んでいたのだ。
祖父にとって宮部久蔵と言う男は決して歓迎すべき存在では無いだろう。
「調べてみると、おばあちゃんと宮部久蔵は、ほとんど一緒に暮らしていなかった。からは結婚してからずっと軍隊にいたみたいだ」
僕は祖父の気持ちを慮って言ったが、祖父は軽くうなずいただけだった。
「それでどうやってその人のことを調べているんだ」
「いくつかの戦友会に手紙を書いて、宮部久蔵を知っている人を探してもらっている。今のところ話を聞けたのは一人、ラバウルで二ヶ月間だけ一緒にいたという人。久蔵さんと同じ飛行機乗りだった人だ」
「その人はなんと」
僕はちょっと躊躇したが、祖父には正直に言った。
「臆病者だったらしい。いつも戦場から逃げていた人だった、て」それから自嘲気味に付け加えた。「僕にガッツが無いのも、久蔵じいさんの血が入っているせいかもしれないね。」
「馬鹿なことをっ!」
祖父はしかりつける様に言った。
「清子は小さい頃からがんばりやだった。どんなときでも弱音を吐いたことが無い。夫ーおまえの父だがーを亡くしてから、女手一つで会計事務所をきりもりし、おまえたちを育て上げた。姉の慶子もその血を受け継いで頑張り屋だ。おまえの血の中には、臆病者の血など入っていない」
「ごめんよ、そんな意味で言ったんじゃない」
しょげた僕を見て、祖父は優しく言った。
健太郎、おまえは自分が思っているよりもずっとすばらしい男だ。いつかそれに気がつく日が来るよ」
「おじいちゃんは、いつも僕に優しいね。こんなこと言うと、あれだけど、そのー」
「血も繋がっていないのに、か」
「うん、まあ・・・」
「私がおまえを好きなのは、心の優しい子だからだ。慶子も気が強いが優しい娘だ。」
祖父はそう言ってほほえんだ。
「優しいと言えば、藤木も優しい男だったな。あいつは自分が辛い思いをしても人のためにがんばる奴だった。そういう性格だから、いまの工場で苦労しているのだろう」
僕は頷いた。確かに藤木は優しくて誠実な男だった。
「ああいう男こそ弁護士になるべきなのだが。」
祖父は悔しそうに言った。
藤木が初めて祖父の事務所に来たとき、僕はまだ小学生で、姉は中学生だった。彼からはいろんなことを教わった。面白い小説、歴史の話、偉大な芸術家たちのの物語。
僕も姉も彼の話を聞くことが好きだった。僕は彼から弁護士がいかにすばらしい職業かと言うことも教えられたし、祖父がいかに立派な弁護士で有るかと言うことも教えられた。
僕が弁護士を目指したのは、藤木の影響があるかもしれなかった。幼い僕にとって、彼はスーパーマンだった。そして僕は彼が大好きだった。
 しかし残念なことに彼は優秀では無かった。というか、司法試験に剥いていなかった。法律書よりも小説や音楽を愛する男だった。だから短答式でさえなかなか通らなかった。
そんな彼を姉はいつもからかっていたが、それは愛情の裏返しだった。
 藤木は故郷に帰る前の週レンタカーで、僕と姉を箱根にドライブに連れて行ってくれた。僕が高校三年生、姉は大学四年生だった。箱根のドライブは僕がずいぶん前に頼んでいたことだったが
僕自身憶えていなかったその約束を彼が律儀に実行してくれたのだ。姉はこのとき車内で「十年近くがんばってきたのに全く無駄だったね」と言った。そして「山口の田舎で傾きかけた町工場の親父になるのね」と笑った。
あのときの姉のからかいはいつもの親愛にあふれたものでは無かった。しかし藤木は怒ることなく、困ったような笑顔を浮かべていた。代わりに僕が姉の言葉に本気で腹を立てた。
僕は藤木が幸せになってほしいと思った。

その日の夜、久しぶりに母と一緒に夕食を食べた。
母は会計事務所を経営していたから、夜はいつも遅く、一緒に食事をすることはまれだった。事務所は元々父と共同でやっていたのだが、十年前父が病気で亡くなってからは、母が所長だった。
「お母さんはおじいちゃんのこと何も知らされていないの」
「おばあちゃんは、私に何も教えてくれなかった。もしかしたら、別に好きで一緒になった人じゃ無かったかもしれないね。昔は見合いで一度しか合わないのに結婚したというケースはいくらでもあったから」
「好きだったのか聞いた」
「十代の頃、一度だけ聞いたことがある」
「お婆ちゃんはなんて言ったの」
母は昔を思い出すような顔をした。
「なんて答えてほしいのといわれたわ」
「それってどういう意味?」
「好きじゃ無かったと言う意味で受け取ったけど、でも、今から考えれば違うかもしれないね」
「好きだったのかな」
「さあ、仮に好きだったとしても、そんなこと言わなかったと思うわ。お婆ちゃんは今のおじいさんを愛していたし」
僕は頷いた。確かに僕の記憶にある祖母はいつも祖父のことを考えている人だった。何かあるとすぐに「おじいちゃん」と甘えていた。祖父もそんな祖母を大切にしていた。
実は祖母の方が祖父よりも年上だったのだが、そんな風には見えなかった。だから、祖父と結婚する前に他の男性と結婚していたと聞かされた時は本当にびっくりした。
「私の本当の父が母を愛していたかどうか、母も父を愛していたかどうかは、永遠の謎だと思う。でもね、私は父がどんな青年だったかは知りたいわ」
「成年?」
「そうよ。父が亡くなったのは26歳の時よ。今の健太郎と同じなのよ」
宮部久蔵の履歴を頭の中で繰った。そして改めて、若くして亡くなったのだなと思った。
「父がどんな青年だったのかかは、お母さんに教えてもらいたかったわ」と母は言った。
僕はあえて聞きにくいことを聞いた。
「もし、久蔵さんが、評判のよくない人だったら?」
「そうなの」
「いや、仮の話だよ。調査の段階で、知りたくないような話が出てきたとしたらと言う仮定の話だよ」
「難しいわね。」
母は少し考えて言った。
「子供たちに物語が残らなかったというのは、その方がよかったからかもしれないって気もするわね」
母の言葉は僕を少し暗い気持ちにした。

 翌週、僕は四国の松山に行った。祖父を知っているという新たな人物に会うためだった。
 最初は姉が一人で行くはずだったのに、直前になって「どうしても外せない仕事が入ってしまって、代わりに行ってほしい」と頼んできたのだ。
拒否したかったが、「フリーのライターは立場が弱いのよ」と泣きつかれると、断り切れなかった。穴が嘘をついているとは思わなかったが、心のどこかに、
長谷川に聞かされた様な話をもう一度聞きたくないと言う気持ちもあったのだろう。
 そんな訳で、一人で四国くんだりまで旅行する羽目になってしまった。自分の人の良さにあきれながらも、姉からもらった倍額の日当でプチ旅行を楽しもうと気持ちを切り替えた。
インタビューは適当の切り上げて、ゆっくり道後温泉にでも入るつもりだった。
元海軍中尉、伊藤寛二の自宅は市内の中心街に近い住宅地にあって、大きな家だった、
伊藤は小柄な老人だった。しかし背筋がピンとしていて、動きに若さがあった。確か、八十五歳になるはずだが、七十代に見えた。
 通されたのは大きな応接室だった。もらった名刺にはいろいろな肩書きが書かれていた。地元の商工会のかなりな大物らしかった。
「会社をやっておられるのですか」
「いや、もう息子に譲っています。今は悠々自適ですよ。それに対した会社ではありません」
家政婦がアイスコーヒーを持ってきてくれた。
「もうすぐ八月ですな。八月が来ると戦争を思い出します」
伊藤はしみじみとした口調で言った。
「宮部さんのお孫さんですね−、あの人にこんなお孫さんがいたのですか」
彼は僕の顔をまじまじと見た。
「戦争が終わって六十年も立って、宮部の孫が私を尋ねてくるなんて思ってもいませんでした。これが人生なんでしょうか¥
僕は長谷川の話を思い出して緊張した。それで、早口に一気に言った。
「実は僕は祖父のことを何も知らないのです。祖母は戦後、再婚して家族の誰にも祖父のことを語らず無くなりました。母にも祖父のお思いでが何も無いそうです。それで、今回、自分のルーツを知りたいというか、祖父はいったいどんな人だったのだろうかと思って、こうして祖父のことを知っている方をお訪ねして、お話を伺っています」
伊藤は黙って僕の話を聞いていた。
それから、古い記憶を呼び戻そうとするように小さく頭を振った。そして何から話そうかと言うように天井を見つめた。
僕が先に口を開いた。
「祖父は臆病者のパイロットと聞きました」
 伊藤は、うん?と言う風に僕を見た。
「臆病者ですか?宮部がですか」
伊藤は疑問符を付けて繰り返した。しかしその言葉は否定しなかった。彼はそして少し考える様に上に目を向けた。
「確かに宮部は勇敢なパイロットでは無かったと思います。しかし優秀なパイロットでした」

電話でも申し上げましたが、宮部との想い出は多くありません。もちろん話はしたことはあります。しかし六十年以上も昔のことで、それらのすべてを思い出すことは難しいです。
 宮部とは真珠湾からミッドウエーまで半年以上同じ戦場で戦い続けていました。二人とも空母「赤城の」搭乗員でした。
空母というのは飛行機を積んだ軍艦で、航空母艦の略です。艦全体が小さな飛行場のようになっていて、飛行機が発着できます。大東亜戦争では最強の軍艦でした。
 私は高等小学校を出て、予科練に入りました。幼い頃から実家の近くにある岩国の海軍航空隊の飛行機を見て育った私は、飛行機乗りにあこがれていたからです。典型的な軍国少年だったんですね。当時の予科練はすごい人気で競争率は100倍くらい有りました。合格したときは飛び上がって歓びました。予科練と繰練は違います。予科練は最初から航空兵として海軍に入りますが、繰練は一般の水兵から航空兵を募った物です。宮部は繰練出身でしたね。
 飛行訓練を終えて最初に配属になったのは横須賀航空隊でした。横空に二年以上いて「赤城」の搭乗員になったのは昭和十六年の春でした。その時初めて新鋭戦闘機零戦に乗りました。そうです、ゼロ戦です。ただ当時私たちは新型戦闘機とか零戦と読んでいました。
ーなぜ「零戦」と呼ばれたか、ですか。
 零戦が正式採用になった皇紀2600年の末尾のゼロを付けたのですよ。皇紀2600年は昭和15年です。今は誰も皇紀なんて使いませんね。ちなみに、その前の歳の皇紀2599に採用になった爆撃機は99式艦上爆撃機、その二年前に採用になった攻撃機は97式艦上攻撃機です。いずれも真珠湾攻撃の主力になりました。零戦の正式名は三菱零式戦闘機です。
零戦はすばらしい飛行機でした。何より格闘性能がずば抜けていました。すごいのは旋回と宙返りの能力です。非常に短い半径で旋回できました。だから格闘戦では絶対に負けないわけです。それに速度が速い。おそらく開戦当初は世界最高速度の飛行機だったのでは無いでしょうか。つまりスピードがある上に小回りが効くのです。
 本来、戦闘機にとってはこの二つは相反する物でした。格闘性能を重視すると速度が落ち、速度を落とすと格闘性能が落ちます。しかし零戦はこの二つを併せ持った魔法のような戦闘機だったのです。堀越次郎と曾根義利という情熱に燃える二人の若い設計者の血のにじむような努力がこれを可能にしたと言われています。
また、機銃は通常の7.7ミリに加えて、強大な20ミリが搭載されていました。7.7ミリ機銃弾は飛行機に穴を空けるだけでしたが、20ミリ機銃は炸裂弾でしたから、敵機に当たると爆発します。相手は一発で吹き飛びました。ただ、20ミリ発射初速が遅く、段数が少なかったのが難点でしたが。
しかし零戦の真に恐ろしい武器は実はそれではありませんでした。航続距離が桁外れだったのです。
 3000キロを悠々と飛ぶのです。当時の単座戦闘機の航続距離はだいたい数百キロでしたから、3000キロがいかにすごい数字か想像が付くでしょう。
 余談ですが、ドイツはイギリスを攻め落とすことはついにできませんでした。ドイツに海軍力が無かったからからですが、そのため爆撃機でイギリスを攻めました。いわゆる「バトルオブブリテン」です。連日のようにドイツ軍爆撃機ドーバー海峡を越えてイギリスに攻め込みましたが、イギリスの空軍は総力を挙げて迎撃し、ついにルフトバッフェはイギリス空爆を断念しました。
ドイツ空軍がイギリス空軍に負けたのは、戦闘機が爆撃機を満足に護衛できなかったからです。重い爆弾を抱えている爆撃機は、速度も遅く小回りもききませんから、敏捷な戦闘機に襲われればひとたまりもありません。そのために爆撃機には戦闘機の護衛が必要なのですが、ドイツの戦闘機はその任務を十全にこなせなかったのです。
ドイツはめっさ−シュミットというすばらしい戦闘機を持っていたのですが、この戦闘機には致命的な欠陥が有りました。それは航続距離が短いと言うことです。このため、イギリス上空で数分しかしか戦闘できなかったことです。戦闘が長引くと、帰路ドーバー海峡を渡りきれず、海の藻屑となってしまったようです。わずか40キロの往復が苦しかったなんて・・・。
零戦なら、ロンドン上空で1時間以上戦うことができたでしょう。完全にロンドン上空を制圧することができたはずです。こんな仮定は馬鹿げていますが、もしドイツ空軍が零戦を持っていたら、イギリスは大変なことになっていたでしょう。
 零戦がこれほどまでの航続距離を持っていたのは、広大な太平洋上で戦うことを要求された戦闘機だったからです、海の上では不時着は死を意味します。だから3000キロもの長い距離を飛び続けることが必要だったのです。それにまた広い中国大陸での不時着も死を意味すると言うことでは海の上と同じです。
 名馬は千里を走って千里を帰ると言いますが、零戦こそがまさに名馬でしたな。
 卓越した格闘性能、高速、そして長大な航続距離、零戦はこのすべてを兼ね備えた無敵の戦闘機でした。そしてさらに驚くことには、陸上機では無く、狭い空母の甲板で発着できる艦上機と言うことです。
 当時、工業国としては欧米に遙かに劣ると言われていた日本が、いきなり世界最高水準の戦闘機を作り上げたのです。これは真に日本人が誇るべき物だと思います。
 戦争の体験は決して自慢できる物ではありませんが、私は今でも、零戦に乗って大空を駆け巡ったことは、人生のほこりにしています。私は今年で八十五歳になります。八十五年の生涯から見れば零戦に乗って戦った二年足らずの時間は追加の間のことです。しかし、その二年間の何という充実したことだったでしょう。それは人生の晩年になってさらに重みを増していきます。
いや、こんなことを若い人に言っても仕方有りませんね。私自身、終戦後は戦闘機に乗っていたなんて体験など忘れていました。食べることに精一杯で、家族を養うことなどで一生懸命でした。本当に必死で働いていました。
 晩年に自らの人生を振り返って初めて、若い頃の輝きが見えてきたと言うとかもしれません。あなたもいずれ年老いて、人生を振り返ったとき、今の自分が今の自分が全く違って見える時がくるでしょう。
話がそれましたね。
宮部が空母「赤城」の搭乗員となったのは十六年の夏です。彼は中国大陸の部隊からやってきました。同じ頃、中国から何人かの戦闘機乗りが母艦に転属になりました。
 彼らが母艦乗りになって最初に行うのが着艦です。陸上の滑走路と違い、大きく揺れる艦の甲板に着艦という物は非常に難し物で、初めて行う物にとってはなかなかの恐怖です。
 海軍の飛行機は陸軍の飛行機と違って、三点着陸が基本です。なぜなら尾部のフックを艦の制止索に引っかけないといけないからです。索はワイヤーでできていましたがこれにうまく引っかからないと空母の短い甲板には着艦できません。
 ところが三点着陸は尾部を下げるため機首が上がります。すると操縦席からは飛行甲板が機首に遮られ見えなくなります。見えない甲板に感だけを頼りに降りないといけないのです。着艦を急げば艦尾に激突です。またそれを恐れて慎重すぎれば、制止索にフックを引っかけることができず、艦首近くに設けた制動板にぶつかります。下手をすれば艦首から海にドボンです。実際、着艦にミスして飛行機が海中に突っ込むのは決して珍しい光景ではありませんでした。そのため空母の着艦訓練には必ず「トンボ釣り」と呼ばれる駆逐艦が後方をはしっていました。着艦に失敗して海に落ちた飛行機をクレーンでつり上げる様子がトンボをつっている様だったからです。
 ついでに言うとマラに制止索が切れることがあり、それは非常に恐ろしい物でした。切れたワイヤーがムチの様の飛行甲板を走るのです。私は、整備員の足が切り飛ばされる光景を目撃したことがあります。さすがにその日は一日飯がのど通りませんでした。最も、その後戦場でもっと酸鼻な光景を何度も目撃して、多少の物では動じなくなりました。
 我々は中国からやってきた連中のお手並み拝見と、飛行甲板に出て彼らの着艦訓練を見物しました。
 案の定、連中の初めての着艦はお粗末な物でした。いずれも大陸で戦ってきた熟練搭乗員たちばかりだったので、何とかこなしていましたが、中には着艦に失敗して海中の落ちる物もいました。我々は腹を抱えて笑いました。
 そんな中、見事な着艦をみせた者がいました。浅い角度でふんわりと真ん中近くに降り、艦首に一番近い制止索に引っかけて制動板ぎりぎりに飛行機を止めました。これは理想的な着艦でした。
制止索は艦尾から艦首に向かって10本前後張られているのですが、艦首に一番近い索に引っかけて止めると、整備兵が飛行機の移動をしやすく、時間をかけずに航続の飛行機の発着ができるのです。しかし艦首に近い制止索に止めようとして失敗すると、制動板に飛行機をぶつけたり、艦首から落ちたりする危険性も高いというわけです。ところが、その飛行機は一番前方の索に楽々と引っかけて着艦したのです。
 我々も思わずほーと声を漏らしました。それが宮部でした。
「まぐれだろう」と誰かが言いました。
 私は着艦を終えた宮部に声をかけました。同じ一飛曹と言う気楽さも有りました。着艦訓練のうまさに敬意を持ったからです。宮部は背の高い男でした。6尺近くはあったでしょうか。
「見事な着艦でしたね」
 私の言葉に宮部はにっこり笑いました。その笑顔は実に人なつこい者でした。
「空母の着艦は初めてでしたが、先任搭乗員の教え通りに」やれば出来ました」
初めての着艦であれほどうまく出来ると言うことは相当機体に対する感覚がよくないと出来ません。私はその時までに着艦の回数は30回を数えていましたが、着艦のたびに緊張していました。
「空母のことは何もわかりませんので、よろしくお願いいたします」
 宮部はそう言って、頭を下げました。私は少々面食らいました。こんな話し方をする軍人は珍しかったからです。もちろん我々も上官に対する時は丁寧な言葉で話します。そうしないと殴られたからです。しかし宮部は同じ階級どころか下の階級の人にも丁寧な口調で話してきました。こんな軍人は帝国海軍では少なかったです。
宮部が搭乗員仲間に軽んじられるところがあったのは、多分にその話し方のせいだった思います。
海軍という所はバンカラなところがあり、特に搭乗員の世界は、言葉�